三重大学伊賀研究拠点      

2016年6月9日

第2回 「松阪の山城を巡る会」開かれる

加藤 進 社会連携特任教授

 

 69日(木)、大河内公民館で見出しの会合が開かれた。晴天なら、現地見学会(脇谷城跡と大河内城跡)の予定で

あったが、小雨になり、足場が悪いことから、近くの大河内公民館で資料勉強会になった。見学会は611日(土)に、

宝塚古墳に集合、10名で実施された。これらについて報告する。

【脇谷城跡の概要】

脇谷城跡は大河内城跡から南側に1kmくらい離れた150160mの尾根筋に設立された城跡である。最近の、山本裕之氏の

考察(中世城郭研究、vol13(1999))に寄れば、やや北寄りにもう一つの城郭があり、論文中では地名を取り、「泉ケ久

保城跡」と仮称されている。1981年に発行された「三重の中世城館補遺」には脇谷城跡のみ取り上げられている。ここ

では両者を含めて、脇谷城跡とする。登城路は定かではないが、吉祥寺の裏山に獅子除けネットの入口があり、ここから

のアプローチが楽である。尾根沿いに登って、脇谷〜泉ケ久保を巡る(800m)と約3時間で、民家の横の獅子よけネットに

降りる。

脇谷城跡の見どころは、堀切である。土塁と土塁(あるいは削平原)の間に、埋まってやや浅くなっているが、明らかに

人工的な掘削跡をみることができる。竪堀は、自然地形を利用し、やや崩れている場合が多く、判定が難しいのが現状で

ある。

                 探求trackを示す(点線の道は不可通)

                        青の領域が松本氏のいう三方土塁の曲輪

特に、曲輪1と曲輪Aの頂上には深さ1m程度、直径2m程度の凹地がある。古墳の盗掘跡か、形状的には「狼煙台」にも見

える。けれども、脇谷〜大河内は1km未満で、のろしよりも馬で走った方が情報の伝達の質が高くなる。あるいはのろし

台にしては、高さが低く、可視範囲が極めて狭い。

松本氏によれば、山本氏が論文では指摘していない、3方を土塁?に囲まれた曲輪Cの存在が興味深いとのことだった(

なお、現場は、開墾、みかん畑、茶畑と変遷を受けており評価が難しい)。

 
図1 脇谷城跡の縄張り図(山本裕之氏の論文引用)

 
 図 泉ケ久保城跡の縄張り(山本裕之氏の論文引用)

論文の図1g地点 堀切 

主郭1の窪地(盗堀跡?) 

マウンドA の 凹地(盗堀跡?) 
 
三方を土塁に囲まれた曲輪?(松本氏)

【大河内城跡の補遺】

すでに、この項で大河内城跡について縄張り図(三重の中世

城館から)を報告したが、その後、地元の人も知らない箇所

が多々あり、トピックを紹介する。

@大手跡:広阪の中川家の裏側から城跡に続く通路が大手口

と呼ばれて、かつては小学校の遠足で大河内城にはこの道で

登ったと言われている。200m程度進むと、山田勘蔵氏の古地

図にある櫓跡と思われる陸岬が見える。国土地理院地図上

で見る平坦地は開墾によって変容し水田、みかん畑等に転用

されている。登りきると石垣が積まれている。この石垣は何

時頃積まれた物か?


















近くにある仏像を刻んだ石仏

A井戸跡

馬場を右に見て、道を回り込むと二の丸につく(神社)。切

通しがあり、搦め手からの登り口となる。切通しを進むと、

右奥にお納戸跡が見える。その下の湿地帯に生えている植物

におおわれて石ずみの井戸跡がある(現地の人の話では、も

う一つ近代まで使われていた井戸があるとか?)。埋もれて

いて、水はたたえていない。この井戸は、松本会長に寄れば

、“いろいろと調べたがこれまでの郷土史報告には記載され

ていない。”とのことだった。


 
 

B秋葉社と行者堂

切通しを注意深く見ると、石の階段がある。私は数回来たが

、この階段には気が付かなかった。この階段を登ると、丘が

あり、不明瞭ではあるが、石の階段が続いている。途中に曲

輪らしき跡と浅い堀切をみることができる。山田勘蔵氏の古

地図では出丸と表記されている。ちょうど、西蓮寺の上あた

りに行者堂と秋葉社が立っている平坦地がある。この南側に

も行けそうであるが、うっそうとしており探検は断念した。

行者堂は、もっと大きいお堂が大河内小学校の裏山にあると

いうことなので折をみて探報したい。

 
この階段を登る

   
行者堂と八幡堂

C北畠の鎮魂碑と水流れ地蔵(西蓮寺内)

   省略

 
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